2008-05-07

ローエコ批判

ファンタジー小休止(笑)。これから留学する人がいれば、読んでみてください。



ローエコとの出会い

ロースクール留学経験がある方なら、トレードのエントリを見ても、私がいかに留学でローエコ的な考え方に影響を受けたかというのは容易に想像がつくと思います。ローエコに対しては、対象とする前提がspecificすぎるとか、机上の空論であるとか、詭弁(苦笑)であるとか、いろいろ根本的な批判もあります。ここでちょっと小休止して、せっかく留学中にふれたローエコを擁護すべく、正しいローエコ批判と、そうでないものを、寓話的に書いてみたいと思います。ま、ローエコ自体まじめに勉強したとはいえない身なので、相当、単なる思いこみかもしれませんが・・・

ローエコとは、米国(特にシカゴ)で発達した、law and economicsという概念で、日本語で言うと法と経済学。例によってお世話になるwikipediaのリンクは下記。

法と経済学

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%A8%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6

ざっくり、個人的な印象を言うと経済的な価値の変動などを式やゲーム理論を用いて検討し、その検討をふまえて、法制度を作るべきというものです。

少なくとも私のいた時代の日本の法学部では、憲法上経済的価値は精神的価値・社会的価値より低いものである。法律は法理念・趣旨を考え、それを実現するための手段である。法律ができた以上はその文言を趣旨から解釈して判断すべきで、生の経済実態と法がずれる場合は、法改正がない限り、経済実態を法が支配すべきというのが、教えられていた価値観です。

これがあながち間違っているとも思いませんが、この目でみたローエコというのは相当強烈でした。経済合理性を考え、それに合わせて規制・促進するのが法律という価値観(少なくとも私はそう感じました)で、要は、法学部で教える内容として、経済ありき。経済が主なんです。

ま、法律というのは基本的に技術で、資本主義の世の中では、経済主導というのももちろんありなのですが、第一印象は、「さすが金(資本主義)万歳のアメリカだなぁ(苦笑)」。でも、この考え方自体はおもしろい、というものでした。ゲーム好きにはゲーム理論はおもしろいようで。

米国(少なくとも私の行っていたロースクール)では、特にローエコ専門授業はなく、なぜないのかと問い合わせたところ、全授業で、「当然の前提として考慮しているから、それだけ特に取り上げるということはしていない」との回答でした。もちろん批判的な教授もいますが、基本的にローエコに基づく考えと結論があるというものがあるという前提でそれを批判している感じです。MA・証券とかはモロにローエコです。

しかし、別の価値観で育ってきた米国外の法律家の受けは良くないようで、日本人に限らず、上記のようなアレルギー的な反応は散見されます。前提が足りないとか、本当か?とか。

せっかく米国に学びにきているのに、一番特徴的なものに最初でアレルギー反応を示すのはもったいないです。何十年も研究されて、法律先進国の米国で広く受け入れられているものが、ちょっとの予習と数十分授業を聞いた外国人に本質的な批判ができるわけがないのですから、とりあえず、受け入れて、それが使えるものなのかを検証すべきではないか、というのが私の考えです。特にファンタジーで同じような考え方をいろいろ実践してみるにつけその思いは強くなる一方です。

そんな現状に若干でも影響を与えられれば、というのがこのエントリの趣旨です。

アキレスと亀(詭弁)の批判

アキレスと亀というのがあります。足の速いアキレスが、亀を追いかけても永遠に追いつけない、という有名な詭弁ですね。

理屈はこうです。アキレスの前を亀がのろのろと歩いています。アキレスが亀を抜こうと全速力で追いかけます。アキレスがスタートしたときに亀がいた位置に行くと、亀はもうちょっと先に動いています。アキレスは、よーし、と再度全速力で追いかけはじめます。この2回目のスタート時点で亀がいたところにアキレスがついたときは、亀はもうちょっと先でのろのろ歩いています。アキレスは、よーし、と・・・・

と、アキレスは永遠に亀に追いつけないという、有名な詭弁(へりくつ?)です。Wikipediaのリンクは下記。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

仮にアキレスと亀の距離を1(アキレスのスタート地点が0,亀のスタート地点が1)、アキレスの速度を2,亀の速度を1として話を進めます。無論、追いつくところは距離2のところですね。(1-0)/(2-1)*2=2という簡単な算式です。

これをふまえて、ABCさん、それぞれに、アキレスと亀を批判してもらいましょう。

A:これって、あれだよねぇ、詭弁でしょ?おかしいよ。

C:いや、そりゃそうかもしれないけど、なぜおかしいか考えようよ。

A:だって、(1-0)/(2-1)*2=2で、2のところで追いつくじゃない。追いつかないって、ないでしょう。

C:いや、その理由が・・・

A:理由もへったくれもないよ、追いつくんだから。しかも2で。ちゃんとわかってることなんだから。だから詭弁なんでしょ?うそ。わかんないの?まちがってるの。まちがってるの!明らかでしょう。あっているはずがない。

C:でも、言っている内容、どこも間違っているとは思わないのだけど、、、

A:間違ってなきゃ、正しい結論に至るはず。正しい結論は、距離2で追いつく。追いつかないという結論だから間違ってるんだよ。直感ですぐわかる。これを間違ってないって考えるって、それは、ありえんだろ。社会通念ってやつだ。追いつかないわけないじゃん。追いつかないって思ってるの?

C:・・・・(いやいや、追いつく追いつかないじゃなく、追いつくことを前提になぜアキレスと亀の見解が間違っているかを話そうとしてるんですが。ここで議論をすり替えられちゃうのかな?)

A:あえていうと、あれだな。何で分けて考えるの?なんでアキレスは、毎回よーし、ってそのばからエンジンをかけるかだな。最初から抜くまで止まらなければいい。分けてるから変なことになるんだよ。分けなきゃちゃんと2で追いつく。そこで分けて考えるってのが視野が狭い。一見もっともでも役にたたん考えだよ、間違ってるし。前提がおかしい。

C:・・・・(それはあなたの支持する算数的には分けない、算数的には2という結論だといっているだけでは・・・?)

B:まったく、数学を理解しない人間はこれだから。間違っている理由を聞かれているんだから、式で説明しないと。間違っているって結論を繰り返せといわれているわけではないでしょ?数学的には×△○☆■・・・(私自身わからない(笑)ので、上記wikipedia参照)。

A:何いってるのか全然わからんよ、それ。ま、いいけど。間違いなんでしょ。俺もそう思うよ。間違い、間違い。おかしいもん。Cも無駄に考えるなって。専門家のBがこういってるんだから間違いないよ。

C:・・・(うーん、わからん。数学は詳しくないのだが、何とかもう少し自分が納得できるように間違っていることをいえないか。。。)

C帰宅後、一人妄想にふける。

確かに「アキレスと亀」で言っていることは、間違っていないんだよね。ま、Aの言っていることもだが(苦笑)。

1回目スタート
アキレス0
亀1

2回目スタート
アキレス1
亀1+1/2

たしかに、常に亀が先に進む(苦笑)。それを繰り返すのだから、ずっと正しいか。じゃ、追いつけない?まそれが違うのはAの言っているとおり。彼の言っていることも正しいことだけだ(苦笑)。で、問題は、どっちが正しいか、それをいえるか。Bのように数式(俺には宇宙語だが)使わずに。

かといって、Bのように数式で証明するのもわからんし、、、しょうがないもう少し進めてみるか。

3回目スタート
アキレス1+1/2
亀1+1/2+1/2/2

4回目スタート
アキレス1+1/2+1/2/2
亀1+1/2+1/2/2+1/2/2/2

一つわかった事がある。どんどんアキレスと亀の距離が少なくなるんだ。

5回目スタート
アキレス1+1/2+1/2/2+1/2/2/2
亀1+1/2+1/2/2+1/2/2/2+1/2/2/2/2

6回目スタート
アキレス1+1/2+1/2/2+1/2/2/2+1/2/2/2/2
亀1+1/2+1/2/2+1/2/2/2+1/2/2/2/2+1/2/2/2/2/2

このままずっと小さくなって、、、、なるほど、2に行かないのか。

確かに、我々の習った数学でも、2に至るまでにアキレスが亀に追いつくことはない。この範囲では正しいことを言っているのか。

とすると、これの問題点は2以上の距離を問題にしていない(できない)ことか。

2以上を問題にできないとすると、何がまずいのか。Aに言わせると、追いつく地点を問題にできていないからといわれそうだが、もう少し何とか。

確か、証明には、できる、という証明と、できない、という証明の難易度の差があったな。悪魔の証明というやつか(wikipediaは下記)

悪魔の証明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E


できることを言うためには、できることを示せばいいが、できないことを言うためには、いかなる状況でもできていないということを示さないといけないというやつだったな。

たとえば、番号が1から10までついた10個の箱と1つのボールがあるとして、いずれかの箱の1つにボールが入っているか、それとも全部に入っていないかを証明するとする。

できること(この場合はいずれかの箱にボールが入っていること)を証明するには、たとえば「4番の箱にボールが入っている」ことを示せばいい。これでいずれかの箱にボールが入っていることが立証される。

一方、いずれにもボールが入っていないことを言うためには、「1番の箱にはボールが入っていない」「2番の箱にもボールが入っていない」・・・・と10個全部を言わないといけないので、ないと言うことの立証の方が難しいのだな。

で、現実社会では箱が無限大にあるから、ないことの証明は、きわめて難しいのだったな。確かに悪魔かと嫌疑をかけられて違うというのは難しそうだ。

これが使えるのではないだろうか。

アキレスと亀の主張するのは、アキレスは亀に「追いつかない」ということ。一方我々の算数が示すのはアキレスが亀に2の地点で「追いつく」ということ。

我々の算数に求められるのは、あること、であり、2で追いつくと示している以上、証明は終了。

アキレスと亀の側はないことの立証が求められているところ、2以上の距離における状況が立証されない。上の例で言えば、1つめの箱にボールが入っていないということを言っていて、それ自体は正しいのだが、だから、どの箱でもボールが入っていないとはいえない、ということになるのかな。現実社会で言うと、10箱全部は確認せずに、「確認した箱全てにボールはありませんでした」という報告になるのかな?

なるほどなるほど。

後日談

C:わかったよ、アキレスと亀の説だと、2以上の範囲を証明していないんだ。●●・・・ってこと。

A:なんだかよくわからんが、結局、俺が分けてるのが問題って言っていたのも同じ趣旨だな。

C:ん?

A:わけるから2に行かない。そうでしょ?問題は2の地点なんだから。

C:・・・・(あいかわらず、「正しい」ことしかおっしゃらない方だ)


感想

いかがでしょうか?

上の話にしても、2に至らない証明は数式が必要だとか、いろいろ、批判は可能だと思います。

ただ、アキレスと亀の仮説に立ってずっと地道にやっていくと2には行かなさそうな事はわかります。どんどん距離が短くなりますし。

別に人の見解をどうだというのはないのですが、何か新しいことを論理的だという人がいるとすれば、少なくとも自分が納得できる限度で論理的に論破したいというのは私にとっては自然な発想で、自分の得意不得意はあるにせよ(Bにはなれないにせよ)、わかっていながら、結論だけ(正しい部分)だけ強弁して、ろくに議論をしない、という姿勢は避けたいなと、改めて感じました。

たとえどんな理屈であれ「へりくつだ」と言うのではなく、どうしてへりくつか(どこに限界があるのか)指摘する、そんな姿勢を保ちたいと、そう強く感じました。

個人的には、ローエコを批判するときも、相手は論理的だと思って主張しているわけですから、少なくとも社会に広く受け入れられている国に留学で学びにくる以上、一度自分で検証してみた上で、どこが役に立って、どこに限界があるのか、それを考えるのが生産的かなと思います。

少なくとも、先日トレードの件で書いたような独占が全体の利益を損なう、というような話は、なかなか、文字だけでは出てきません。消費者保護とか不当な利益といったって、何にも値段はあり(車は100円で買えませんし、売らせるべきでもありません)、必要なプレミアムは得るべき(著作権とか、特許とか)であるのに独占がなぜまずいか、それは単に消費者が高い値段を払うからではなく、全体の利益を損なうからだと思うのですが、どの程度そこなうのか、ある程度式にしないと独占との関係で著作権・特許をどの程度保護すべきかという議論とかも単なる感情論や、他の国との横並びとしかならないのかなと思う次第です。留学前から競争がないと不当に高い値段で売ることができるというのは知っており、消費者が高い値段をだすことになるとは知っていましたが、それが、なぜ「不当」なのか、というのはなかなかわからなかったものです。こういったことはやはり数字やモデルで考えるのが一番わかりやすいのかなと感じたのですが、日本ではその教育はありませんでした(大学に行っていなかったのもありますが、少なくとも読んだ本とかにはあまり大きく出てませんでした。せいぜい経済原論とかの経済系でしょうか)。

日本で評価される姿勢というのは、正しいことを言うこと、議論に「勝つ」ことのように感じます。議論というのはよりよい結論が何かあり得るのか、何もないのかというためにすべきで、すでにある結論を強調すべき場ではないのかな、と思っています。だから、いろんな意見をまじめに聞くべきで、自説を(とくに支配的であると知っているときに)強弁して少数派、反対派を弾圧すべき場ではないと思います。その点、交渉のようにまとめること、譲歩を得ることなどを目的とするものとは本来全く違うわけです。もう少し、日本でも議論の仕方、ってのが一般に行き渡ればなぁと、上記Aを書いていて思いました。あとAの派生形として、無口・原理原則だけ繰り返すというパターンもあるかと思いますが、基本の精神は同じに感じられます。ま、この点は、特に有効な議論の仕方が米国にはあると感じた経験をしたわけではないですが。

弁護士が留学する場合、もともと対立する利益のどちら側の代理人でもできるという能力を鍛えられているはずなのですから、依頼者のために話すではなく、何かを学ぶというときに、どちらのポジションにも立ってみるというのはできると思うんですよね。

ま、私自身は主に遊んでいた留学ですが、もし、これから留学をと考えて検索でこのページに至った方が、このエントリを読まれていたら、その点だけは気をつけてもらいたいなと思います。やはり留学は新しい価値観にふれる場ですから。


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